日曜日, 6月 28, 2009
Bremenでの・・・コト(223)参るわ・・
気がつけば2週間ほど、日記を書いていませんでした。
この事実に意識が及ばないほど、精神的にアップアップということでしょうか。
というのも、ワーホリビザから学生としての滞在許可への変更がブレーメンでできないので、一回日本に帰ってね。と外人局の人に言われておるのです。
複雑な事情をちらりと書きますと。
まず、日本人がドイツに入国する時、基本的にはビザがいりません。ビザ不要な対象者は、観光客のみならず、語学留学生、正規の大学生、就労者を問わず(これから入学する人も含め)、手放しで入国する事ができます。もし、観光ならそのまんま滞在し、帰国するだけ。(日数制限があるけど)。もし学生等になるのであれば、居を定め、住民登録をして、所轄の外人局で“滞在許可”をもらいます。これは“ビザ”ではありません。日本人間では“ビザ”と表現した方が、何を言い表したいのかが明確になるため、“ビザ”を好んで使いますが、ドイツに滞在している日本人の多くが“ビザ”ではなく、“滞在許可”を持っています。そしてこれで十分です。どういう人がビザが必要なのか・・というと“ワーホリの人”か“外交官の秘書??”(不確か)。そして“ビザ”というものは、ドイツでは発行できず、日本で発行してもらい、入国の際に携えてくるべき物になります。つまり、ワーホリ者が、ワーホリビザを日本で取得するという行為は理にかなっています。
さーて、私は9月にこのビザが切れます。なので、ここに留まる手段として大学に願書を出し、先日ブレーメン大学からの受け入れ許可をもらいました。なのに、「ワーホリビザから滞在許可への現地での切り替えは不可」の一点張りで、理由は「それがワーホリビザだから」以上。日本に一旦帰ったら、上手く行くのかというと、今度はシェンゲン条約に引っかかって(多分)3ヶ月は戻ってこられないはずです。
なので、どうしてもここで切り替えがしたい。別に不法な事をしているわけではないのです。ベルリンでも近くの都市でも、幾人ものワーホリ者が滞在目的の切り替えをして、留まってます。なぜブレーメンで通用しないのでしょう・・。大学併設の外人局でも、市の外人局でも門前払い。熱心さも理由も、訴えも聞いてもらえません。
知り合いのドイツ人に相談してはいますが、事は上手く運ぶのでしょうか???先々までの予定が詰まって行っているのに、私の所在だけ不確かな感じ。精神的に参ってしまいます。どうなるのでしょうか。
まあ、めげずに、また外人局に行ってみます。今度は前回行ったときに持っていなかった“大学からの受け入れ書類”を携えて・・。
大学に入る事を想定してのテストも控えているし、(またこれが難しくて、今回はあきらめモードと言うか、当て物の域に達していると言うか、運次第と言うか)・・。そんなこんなでイライラも募ります。
で、契機付けに?劇を見てきました。「Blau Meiyer」という団体の劇です。この団体は障害者を一緒に活動を行う団体で、ブレーメンではかなり名の通った団体。私が今度参加するBlau Karawaneも、お仲間的な存在やと思います。(まだいまいちよく分からない)掛け持ちして参加している人もいるので。でで、障害のある方、と団体のメンバー、そして2人のプロ。このハンデの中、物語がしっかり進んで行くのです。驚きでした。上手く喋れない人、立ち振る舞えない人ばかりなのに、何が起こっているか、何が表現したいのかしっかり分かるのです。もちろん、プロの方のリードもあったりはしますが。
劇を通じて、障害のある方の熱心さに感動したというより、劇そのものが十分に感動に値する物でした。劇と言う芸術の(私自身に取っての)新たな可能性みたいなものを感じました。こういうことって可能なんだ、って。劇を見て。気分は上々。
ビザ問題だけ解決すれば、言う事無いのに・・。誰か助けてください。違法滞在を企む人みたいな必死さ・・どうにかしたいです。
ビザの事を考えては気が沈み、テスト対策の教科書を見ては、気が沈み・・な感じです。ということで写真はなし。浮上する日はくるでしょうか。
日曜日, 6月 14, 2009
Bremenでの・・・コト(222)交換マーケット


今日は所属団体「TauschWatt」(独自通貨でサービスやモノをやり取りする団体)のフリーマーケットの日でした。一応、新参者なので皆に顔を覚えてもらうべく(来ない人の方が多いけど)参加しました。おなじみの教会がオフィス場所でもあるし、教会の人もメンバーなので怖いものなし、と。
いつものようにクッキーを焼いていきました。たいしたクッキーではありませんが、とりあえず時間だけはかかりますので、一袋30分の料金で売り出しました。
今日のマーケットは自分が提供しているサービス関連だけではなくて、普通のフリーマーケットのようにモノを出しても構いません。でもお金は動きません。すべて独自通貨が動きます。各人がこの通貨の口座を持っているので。
口座はプラスにもマイナスにもなります。マイナスは“罪”ではありません。ということは、無料でモノが手に入るような感覚なのです。食べ物も提供されていました。ケーキやカフェも。ただ飯が食える、ということです。本当にとっても不思議な感覚。私はクッキーを出しましたので、材料費や時間がかかっているのに、得られるのは現金ではないという事情がありますが、出店しないメンバーは、独自通貨を払うだけでいろいろ手に入れて帰る訳です、不思議です。そしてすごい。
私もジャムとか、必要なものをいろいろ独自通貨で払って手に入れてきました。
クッキーに対し、一つ忠告されたのが「高すぎ」ということ。マーケットの日は通常より安くすべき、だそうです。いくら独自通貨とは言え、みんな頭でユーロに換算するんだから、と。時間=価値なんだから放っておいてほしい、と、これでも思っていたより安くしたんだ〜〜とも思いながら、頷いておきました。でも10個袋を作って一応物珍しさも手伝ってか、みんなが助けてくれようとしたのか、すべて売れましたので、よかったよかった、です。でもあんまりたくさん作ると味が落ちる・・というのが感想。まあ、クッキー屋さんではないのでいいんだけど。
次の依頼(日本語関係)も入ったし、いろいろ楽しもうと思います。
土曜日, 6月 13, 2009
Bremenでの・・・コト(221)やっと一段階

ワーキングホリデーでここに来ています。それって何?という人もいますが、まあ、結局はホリデーで、一応働いたりもできる、と。類人猿が猿で、猿人が人みたいなもので、ホリデーです。
ビザの有効期限は1年。ドイツに滞在してもいいし、居を定めずドイツ中うろうろしてもいいし、他国に居てもいい、とりあえず年中旅行してふらふら〜〜も可能。そして少しは働ける。ビザなし滞在が半年?三ヶ月のみなのに対し、最大一年合法にドイツ滞在ができるビザです。
で、このブログの「Bremenでの・・・コト」が始まった9月から数えて、1年後にはドイツを出国する必要がありました。しかし。
ゴスペルのクワイアはあるし、キャラバンはあるし、大聖堂美術館でのボランティアはあるし、と何かと交友関係が広がり、職がないのはここでも日本でも同じだし・・精神的身体的な事を考えても、日本に帰るのは得策ではない、というか帰りたくない、というのが気持ちでした。
しかし滞在にはビザの書き換えが必要になってきます。
ビザの種類は思いつくのが3種類。学生ビザ。就労ビザ。配偶者ビザ。この中でどう考えても簡単なのが学生ビザ。ということでブレーメンの大学に願書を出していました。
年齢の事も考えろ〜〜って感じですが、まあ置いといて。
一応5年も大学に通い、卒業していますが、全然分野が違うので、またまた学部生からの応募です。日本から成績証明書などをとりよせ、大学に直接ではなく国立大学を一括して取りまとめているようなセンターへ応募。そしてそこからブレーメンの大学へ、「これこれこういう輩が、あんたのところの学部生になりたいと言っている」と通達。在籍できる余裕があれば、受け入れられるというシステム。学部生応募は面倒だけどよっぽどの事が無い限り空席がないことは無いみたい。マスターとかになってくると、教授とのコネが必要になってくるようですが・・。
願書提出後待つ事一ヶ月。募集要項のドイツ語も100%理解しているとは言いがたいので、何か思い違いをしているかも・・とそろそろ不安になってきたころに、やっとセンターからの受け入れ許可の案内が来ました。この後、もう一度ブレーメン大学からの認可がでる必要がありますが・・。とりあえず第一段階は突破した模様。
ということで、次は大使館でのビザ申請が待っています。これもどうなる事やら・・ですが、大学に行くということが明らかなので、大丈夫でしょう。不法に滞在したり、悪い事をしでかそうと滞在する訳ではないし、結局ドイツに金を落とすのだから・・・。
さて、大学生になるには、一応語学の試験があります。明らかに語学力不足の人は入れてくれません。ということで勉強中・・。なのですが、すっごく特殊はテストでコツばっかりを習います。読み書きと話すテストとリスニングの4カテゴリがあります。合格のラインは3分の2。一回で受かるとは思えませんが、なんとか頑張ってみます。
もっとテストの事も書きたいのですがこの辺で。
水曜日, 6月 10, 2009
Bremenでの・・・コト(220)へえ・・よく見れば




マルクト広場に立つローラント像。市庁舎の建物と並んで世界遺産に登録されています。中世文学『ローランの歌』に登場する英雄ローランの像という事だそうで、実在の人物ではないのでしょう。ブレーメンには(密かに)何体ものローラントがいるということです。
さて、ローランド。先日お手伝いの作業所でローランドのコスチュームを作りました。何度も何度も瞳に写っていたローラントでしたが、あれほど詳らかに見たのは初めてでした。まず、注目すべきは、ローラントの膝です。“とんがり”がくっついています。このとんがりの幅が、ブレーメンにおける昔の度量衡単位のElleで、商取引で使われたそうです。
そして、あまり気がつかないのが、ローラントの足の間にいる(踏まれている??刻印されているだけ?)人物です。この人物は自力では立って歩けない、身体に障害を抱えた男です。
でもなぜこんなところに??それに関しては面白い話があります。
慈悲深いエマという伯爵夫人がいました。彼女の夫(伯爵)の死後、遺産や所持品などの財産で、民に施しをする気の良い夫人でした。しかし、伯爵の弟にあたるベノ公爵はそれをよく思わず、彼女の死後には自分自身やその息子に受け継がれるであろう財産を残してほしいと願っていました。
ある時、ベノ公爵がエマ伯爵夫人を訪問し、2人と側近たちでブレーメンを通りかかったとき、ブレーメンの代議士たちはエマ伯爵夫人に、一周するのに一時間ぐらいかかる広い牧草地が欲しいと訴え、エマ伯爵夫人はそれを与える事を約束しました。
ベノ公爵は、エマ伯爵夫人に、「遺産で民に施しばかりするのではなく、守ることも少しは考えた方がいい」と進言。夫人は「神が与えた富ですが、あなたの言う事にも一理ある」とその忠告を素直に聞き入れました。悪賢い公爵は夫人が素直に従った事に驚きつつ、エマ夫人を策略にかけるべく、「今後、民への施しなど、財産の管理は私に一任してくださいね」と言いました。エマ夫人は、何の疑いも持たずそれに同意しました。
それを聞くや否やベノ公爵は元来た道を戻り、先ほどエマが施しをした物乞いの所まで駆けて行きました。驚いた事にその物乞いは身体に障害を抱える男でした。ベノ公爵は“今こそ、この物乞いに対し、エマ伯爵夫人が了承した事を実行する時だ(民への施しは自分に一任)”と物乞いに対しひどい仕打ちをしました。
見ていた市民は嘆きの声を上げ、エマ伯爵夫人はその男の肌に手を当てて祈りました。市民は疑いの目で見ていました。エマ伯爵夫人はその男が自力では立てず歩けず、毎朝夕誰かにつれて来てもらい、つれて帰ってもらっている事を分かっているのだろうか・・と。
エマ伯爵夫人はその男に対し、立ち上がるように促しましたが、もちろん男の足は機能しません。男は這い始めました。夫人の側近がその男の這う道筋に付き従い、100回這うごとに一本支柱を建てていきました。男は這い続けました。最初は見ていた市民も、見飽きて家に戻ってしまいました。しかし、午後になってもう一度そこまで出て来たとき、市民は見つけました。ずーっと遠く遥まで支柱が続いているのを。そして、男が引き返し、こちらにどんどん近づいてくるのを夜になるまで見守りました。
太陽が沈むころ、男は街に戻ってきました。そして彼の這った後は、ぐるりと支柱で囲まれました。この土地はまさに、市民が牧草地として求めた大きさそのままだったのです。これは1032年のお話です。
今でも中央駅の裏側は“B殲gerweide”(市民の牧草地)とう名称で、誰もが立ち入りできる場所になっています。(ただの広場と言うか・・に思えますが)ブレーメン市民はこの偉大な男に尊敬の念を抱き、彼の存在を心にとどめ、後世に語り継ぐために、ローラントの足の間に刻みました。
エマ伯爵夫人は夫の死後40年生き、死後は大聖堂地下に埋葬されたということです。
しかし、ローラント像は1404年に立てられた・・ようなのです。いつからこの“物乞い”像が刻まれていたのか・・は分かりませんし、何の関連もない二つの話と人物が、あたかも深い関連があるかのように存在するのはなんだか不思議です。
Bremenでの・・・コト(219)初依頼!?

4月だったか、「物々交換」で成り立つ団体に所属したことを書いたと思います。あらゆるサービスを時間で計算し、団体独自の通貨で支払うというシステム。食事の提供だったり、車での送迎だったり、掃除洗濯だったり、コンピューター関係だったり、引っ越しだったり、庭仕事だったりを提供する(手伝い)、それに要した時間により、独自通貨Tidenが得られます。
この団体のオフィスが私の通う教会に設置されている事もあり、教会でちょっと奉仕をすると、Tidenで払ってもらったりしていました。
私の提供しているのは、いつもお使い物にしている“クッキー”を焼く事と、日本語会話をしますよ、というのが大きなところ。
これら各人の提供サービスは月ごとの会報誌に掲載され、メール等で全員に配られます。参加者はこれを見て各自でコンタクトを取り、依頼し、詳細を詰めます。
はっきりいって見知らぬ人に頼むのは結構な勇気がいります。なので、3ヶ月に一度くらい、みんなが集まれるフリーマーケット的な集まりがあるようです。
(これはまだ行った事がありません)
私は幸いにも、教会関係でTidenを稼げていました(別に稼ぐ必要はありませんし、サービスを提供してもらうばかりで、Tiden残高がマイナスになることも、罪ではありません)。でもなかなか個人的な依頼というのは難しいものです。
しかも、クッキー・・。味は普通だし、これといって特徴はない。しかも毎週教会の礼拝には携えて行く・・というクッキー。そもそも食べた事のある人しか、得体の知れない日本人の焼くクッキーなど食べたくないだろうし、食べた事のある人=顔見知りは、依頼せずとも教会の礼拝で食べれるし、ということで、依頼などゼロでした。
しかし・・。教会で働く男性のお友達が食べたいから、一袋作って。と依頼が来たのです。
今までですでに200回くらい焼いたのではないでしょうか、そして方々にお使い物として持って行っていました。その苦労が・・(苦労してないし、好きでやっていますが)報われた感じです。一回に50個ほどしか焼けないオーブンを使用しているので、あまり依頼があると困るし、結局現金収入にはならないので、作るたびにマテリアル費マイナスですが、なんだか嬉しい!気分になりました。
味は普通 と書きましたが、個人的には普通に美味しいと思います。(自分で言ってたら世話無いけど)こちらのバターが美味しいから、単にその理由かな、と思ってます。
金曜日, 6月 05, 2009
Bremenでの・・・コト(218)今日の発見
Bremenでの・・・コト(217)ドイツにいるからたまには。
ドイツへ音楽留学に来ている人も多いというのに、所謂“クラシック”という音楽をブログで話題にした事がないような気がする。音楽と言えばいつも“ゴスペル”とか“歌のレッスン”の事ばかりで・・。
ちょっと興味深い話を勉強しましたので、ちらりと書き留めます。
ブラームスの「Ein Deutsches Requiem」(ドイツ・レクイエム)について。ご存知の方も多いでしょう。(私はあんまりピンと来ませんがブラームスは知っています。詳しくは知りませんけれども)このドイツ・レクイエムがブレーメンで初演され、その成功をきっかけに、ブラームスはドイツ音楽の三大Bとも称される存在になっていくのだそうです。
レクイエムとは、オーケストラと合唱、およびソプラノ・バリトンの独唱による宗教曲。日本語では「鎮魂歌」と訳されます。カトリック教会におけるミサ曲のことです。しかし、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」は、ルター訳のドイツ語聖書の中から歌詞を取っている、つまりプロテスタントの考え方が盛り込まれた楽曲という事です。だから、特に礼典用に作曲されたというよりは、純粋に演奏するための作だといえるそうです。
ブレーメンでの初演は1868年4月10日。この初演にいたるまでには、ブラームス自身の“性格”も含み、様々な偶然が重なりました。
1866年にチューリッヒで曲を完成させたブラームス。お披露目の機会を探していました。そして1867年交遊のある人たちに曲を紹介するため、友人のアルベルト・H・ディートリッヒにオリジナルの楽譜を送りました。“オフレコに”と厳重に言い渡して・・。しかし、ディートリッヒはこの曲にいたく心を動かされ、ブラームスの忠告を顧みず、ブレーメン大聖堂のオルガニストであったカール・ラインターラーに渡してしまいました。
しばらくの後、こういう事態になっていることを知らないブラームスは、楽譜をもう一度手元に戻したいと思い、バイオリニストのヨセフ・ヨアヒムに「返して」と迫ります。
「??」。ですね。
忘れっぽいところのあったブラームス。自分が楽譜を渡したのが誰であったかもすっかり忘れていたのです。彼の楽譜を手にした事など無いにもかかわらず、楽譜を無くしたと、根拠の無い疑いをかけられたヨアヒムでしたが、ブラームスの新曲のことは聞いており、幸いにも、ヨアヒムの力により、オリジナル楽譜の行方は明らかになったのでした。
ブラームスとラインターラーの間で交わされた手紙が残っており、それによると、(この楽譜騒動の経緯から)最初のやりとり(人間関係は)いまいちだったようですが、後に友好的になり、ブレーメンでの初演のためにお互いに尽力したことが書かれています。
ちなみに、この初演。ブラームス自らの指揮で演奏され、大成功を収めました。
さらに。このブレーメン初演の段階では第5曲にあたるソプラノソロの「Ihr habt jetzt Traurigkeit」は無かったのだそうです。この部分の作曲の理由に“ブラームスの母の死が影響”が挙げられる事がありますが、母の死が1865年であることを考えるとこの説は間違いだ・・とも指摘されています。
以上、ブレーメン大聖堂からのプチ情報です。
火曜日, 6月 02, 2009
Bremenでの・・・コト(216)ベルリン写真館

途中でカメラのバッテリーがなくなり、携帯での撮影になってしまいましたが・・とりあえずベルリンの写真。こういう回もあってよいでしょう。
ブランデンブルグ門
私のベルリンは森鴎外の「舞姫」を中心に回っています。無意識の意識に悩み続けた豊太郎に対し、私はドイツに来ることで、やっと無意識の意識に忠実になることができ、その意識が存在を感じる事の苦痛から逃れる事が来た気がします。
鴎外曰く、ウンテルデンリンデン。

鴎外記念館。

壁後はこんな感じ。

壁はこうして、販売。尽きる事はないのかな?でも単なるコンクリだからいくらでも偽が製産できる??(あってほしくないけれど)

ま、ベルリンは大きい。またいつかゆっくり来たいと思います。
Bremenでの・・・コト(215)首都初体験


ドイツの首都ベルリンへ行ってきました。主な目的はここで開かれるカーニバルに参加する事。またもブレーメンより参加するチームの手伝い役です。今回は、私の団体が個別に参加するのではなく、ベルリンのサンバチームと合同でパレードをしました。Sapcaiuとかいうチームで。
金曜夜にベルリンに到着し、土曜日の合同練習をはさみ、日曜日がパレード。もちろんパレード以外にも様々なステージが催されていました。
地下鉄の車内広告には700000人の人手がどうのこうのと書かれていましたので、相当数がベルリンを訪れていたようです。
確かにパレードはかなり大規模でした。参加グループ約100。どのグループも山車的な車を動員してパレード。地下鉄の駅5つ分くらいの距離を4時間以上かけて練り歩きました。最初のグループが動き出したのが12時半。終わるのが22時頃。道路は一日中封鎖・・。
私は高脚コスチュームグループのヘルパー、と写真係。はっきりいって、パレード脇から写真を撮るのと、パレードの本道から写真を撮るのでは全然ストレスが違います。パフォーマーが私のカメラに表情を作ってくれるし、顔を向けてくれるし、観客の頭や手が入らないし。撮りたい放題だし。ということで、またもや1000枚ほどの写真を撮ってしまいました。
今回のコスチューム。昨年のカーニバルで使用されたもののようですが、とっても目を引く奇麗な衣装。
そしてみんな“役者”さんなのです。普段は、無口だったり、どんくさそうに見える人たちなのですが、本番になると「さすが〜〜」の動きなのです。役者さんってこういうものなのかもしれません。
精神的にも身体的にも結構疲れてベルリンのカーニバルは終わりました。
さて、もちろんベルリンの街も見学・・・・(ほんの少しだけですが)しました。ベルリンといえば「壁」。とりあえず壁。一緒に行った仲間は私より年上がほとんどで、ドイツ統一の記憶がしっかりある人ばかりでいろいろ話してくれましたが・・。もともとベルリンの壁って私にとっては不思議な存在です。孤島となっていた西ベルリンに、しかも壁で取り囲まれた西ベルリンに、壁を越えて入り込もうと試みた人たちがいたって。大から小へ。自由から束縛への感覚ですが、実際東と西ってそうじゃなかったのでしょう。なんだか上手く言えないけど。で、壁との生活って想像できません。窮屈じゃないの??って。はっきりいって不思議な感じです。
それが取り除かれてから、統一ドイツになって、で、普通にみんなドイツ人として暮らしてる。心はどうなの?心穏やかならざる感覚はないの?まだ20年前のことでしょ?
残念ながら私には、ここの人たちがどのように思い、壁と、人と向き合っているのか理解できませんが、ただただ不思議な感覚です。
ベルリンの感想としては、やはり大きな街だということです。そして、何かしらの目的があるのでしょうか?国際的なイベントの会場になるような??工事現場が以上に多い。そして雑多な感じ。汚い。ドイツって他の都市もこうなの?ベルリンだから?首都だから??全く落ち着かない。
ブレーメンって本当にいいところです。(またまた)改めてブレーメンの優しさを感じました。
ちなみに、ブレーメン観光で真っ先に訪れた「森鴎外記念館」は休館でした。また来ます〜〜。
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