日曜日, 3月 07, 2010

Bremenからこんにちは(78)日本語映画

昨日2つ目のテストが終了。これは一般常識テストというか、IQを測るようなテストで(ってよく知らんけど)、簡単な計算問題やら、言葉の関係を解いたり、ある法則に従って図形を当てはめたり、数字の並びに法則性を見いだしたりする“核テスト”と、大学での勉強したい学部により受験科目が変わる“専門”の2種類。専門と言えども、これから勉強する学部の専門知識は必要ではなく、簡単な文章の読解や関連性の読み取り、文構造の解釈等(私の受けた専門はそうで、その他経済とか理数系とか計4種類)、“高等教育を受けるには必ず持っているべき基礎?学力”を問われるテスト。これの外国人向けバージョン。(つまり、語学力はある程度ついたけど、そもそも君たちはドイツ人が大学へ入るまでに初等教育で学んだようなことは、もちろんやって来たよね?と問われているわけ)でもテストはドイツ語で受けます。(英語の選択も可)
それがまあとりえず終わって(時間が過ぎて)、借りてからそのままになっていた映画を2本見ました。外国の映画ですが、日本語字幕。日本発売の日本購入のDVD。一つ目が「サン・ジャックへの道」サンチャゴ巡礼道の旅で人間模様、社会の縮図を描いた作品。二つ目が「リトル・ミス・サンシャイン」。小さい娘のミスコン出場のため、1000キロ以上も旅をする家族の物語。どちらもある非日常のイベントや出来事を通じ、それを乗り越える事で、お互いの絆が深まり、人間的により成長する、“等身大”の人間を描いた作品です。
基本的に私はこういう類いの映画がとても好きです。“雨降って地固まる”的な。そうでもしないと物語が起きないのだけれど、“巡礼道”や“ミスコン”など、普通に暮らしている場合にはあまり遭遇しない事をモチーフにし(わざと、爆弾を仕掛けて、物語のスタートを切らせる感じ)、それから巻き起こる問題を“結”に向かわせるその過程を見せる映画。それと同時に目に見える(設定された困難)だけではなく、個々が抱いていた問題も一緒に解決していく・・・。
じゃあ、日常では有り得ない事?って思うけれど、決してそうでは無くて、映画と言う娯楽であり、千差万別の人間が鑑賞することを見越し、メッセージをより分かりやすく伝えるための“非日常”であり、ちょっとちた問題や困難などの“でこぼこ道”は日常生活で十分起こりえる事。そして、誰が主役、というわけではなく、登場人物一人一人が物語を、人生の背景を持っている。これはまさしく、人生そのもの。
久しぶりの日本語映画で、面白くなかったらなんと言って返そうかと考えていたのですが、そんな心配は杞憂で、2本まとめて一気に見ちゃいました。

私の大好きな映画「12人の優しい日本人」がちょうどこんな具合。当時は、有り得ない設定、「日本に陪審員制度があったら」ということでスタートしますが、各登場人物が一人一人丁寧に描かれていて、問題が起こって解決に向かう。問題の解決と同時に、人間問題や各個人の持つ問題も消え、“大円団”で終わる。こういう映画、大好き。見終わると心がすこーんと、クリアになる。鑑賞する事で、一緒に問題に立ち向かう事で、鑑賞者の“心のグチャグチャ”も洗い流しているのでしょう。

今見たばかりの映画の話に戻りますが、忘れちゃいけないのが「失ったもの」の存在。2本の映画に出て来たみんなは、貴重な体験をし、得る物がたくさんあった。でもそれと同時にいっぱい失った。その事実からは目を背けてはいけない、と思う。
きっと人間のキャパって決まってるんだろう。何かを得る時には、何かを捨てないと“持てない”。“徳”の代償に“毒や悪”を捨てたらそれは100%“徳”か?と言うと、そうでは無いかもしれない。少しの幸せを、それよりちょっと多い幸せに交換(捨てて、得て)して人間って歩んでいくんだろう。

かくいう私は、現在ちょっと病気の具合が思わしくなく、悪のスパイラル中。もともと病気を捨てたつもりは無かった(捨てられると思っていなかった。でも捨てる事に対する不安もあったのか、と思う)けど、しっかり、病気とつながる手綱は握ったままだった。今、十分幸せだけど、この幸せは、病気の一部を捨てた代償で得たもの。もっと大きな幸せを得るためには、病気の根源から全部放棄しないと駄目なのかも。でも、その根源には、少しの“プラス”がくっついている、と思ってる。そのプラスを失うのが怖いんだろう。自分が病気であったこと、病気が完全には治っていない事、を自覚し、証明することができるという“プラス”。これはきっと“似非プラス”であり、捨てるべき“プラス”で、乗り越えるべき事なんだろうなあ・・・。

と、まあ映画を見て、一晩おいていろいろ考えました。

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