私はキリスト教信者ではない。洗礼も堅信も受けていないという意味で。ただゴスペルは歌うし、教会に出入りするし、礼拝にも参加すれば、聖餐にも参加する。
もちろん信徒信条も唱えるし、主の祈りの言葉をもって祈る。wikiから借用すると、
信徒信条
我(われ)は天地(てんち)の造成者(つくりぬし)、全能(ぜんのう)の父(ちゝ)なる神(かみ)を信(しん)ず。
我(われ)はその獨子(ひとりご)、我等(われら)の主(しゆ)耶蘇(イエス)基督(キリスト)を信(しん)ず。即(すなは)ち聖靈(せいれい)によりて胎(みごも)られ、處女(をとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ、ピラトのもとに苦(くるしみ)を受(う)け、十字架(じふじか)につけられ、死(し)して葬(はうむ)られ、(陰府(よみ)に下(くだ)り)第三日(だいさんじつ)に死者(ししや)のうちより復活(よみかへ)り、天(てん)に昇(のぼ)りて、全能(ぜんのう)の父(ちゝ)なる神(かみ)の右(みぎ)に座(ざ)し給(たま)へり、彼所(かしこ)より來(き)たりて生(い)ける者(もの)と死(し)ねる者(もの)とを審判(さばき)たまはん。
我(われ)は聖靈(せいれい)を信(しん)す、聖(せい)なる公同教會(こうどうけうくわい)すなはち聖徒(せいと)の交通(こうつう)、罪(つみ)の赦(ゆるし)、身躰(しんたい)の復活(ふくくわつ)、永遠(かぎりなき)の生命(いのち)を信(しん)ず。アーメン
主の祈り
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
・・・こう書いていて、自分で非常に違和感を感じる。
私がしているのはこんな事じゃない。
nicht getauft, konfirmiert だけど、Gottesdienst Abendmahlにはいるし、GlaubensbekenntnisもVaterunserもとなえる。
Ich glaube an Gott, den Vater, den Allmächtigen, den Schöpfer, des Himmels und der Erde…
か
Vater unsere im Himmel geheiligt werde dein Name, dein Reich komme, dein Wille geschehe wie im Himmel so auf Erden…
これだ。
私はクリスチャンではないので、日本で礼拝に自主参加する事はほぼゼロに等しかった(子供の頃で入りしていたようだが)。だから、教会で普通に使われる言葉は、私にとってはドイツ語がすべて。他の表現だと違和感を感じる。
子供が言葉を習得したりするのと同じだろう。私にとってはドイツ語表現が普通だ。
そんな私が、堅信を受ける33人の14歳の研修旅行に同行した。
土曜日, 4月 23, 2011
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