水曜日, 4月 21, 2010

Bremenからこんにちは(90)なんかイライラする。なんかちょっと違うんだねえ。

誰しも、生活の中で身についたというか癖や習慣になってしまっている、言い回しや文調がある。だから作家さんの作品を読んでいても、読みやすい人、読みにくい人(あくまで自分から見て)がいたり、翻訳作品でも、上手い訳(自分が理解しやすい、読んでいて気持ちがいい日本語)の時とそうでない時がある。
でも、絶対的に(相対的にではなく)美しい日本語は、読んで気持ちがよく、声に出して読むと更に気持ちがいい。物を書く事を生業としている人は、こういう読み手の感じ方を考慮しながら言葉を選び、文を組み立てているはず。だから、不快な気持ちにさせる文を故意に書いたりもできる。(ンだと思う)。でも残念ながら一般人は、自分の言葉の、自分の文における特徴やそれが他人に与える印象等を、自分で感じることができない。周りからのフィードバックに頼るしかない。大半の人は多分、そもそも、特におかしな日本語を使っているわけでも、素敵な日本語を素敵な文を書いている訳でもない、あくまで普通・・だと思っている。
知人友人とはメールを介してのやり取りが主流になっているけれど、「性格上の書き回しかなあ〜〜」と思える程度の特徴を持つメールが大半で、きわめて普通のメール、文。尤もメールで奇をてらう必要は無く、必要な情報、お知らせが、誤解無く伝わればそれでいいわけなので、頑張って美しい日本語を書く必要はない。だから特に特徴のない文章になるのは、当然。

ただ・・。一人見つけた。ちょっと“違うんじゃない?”と思うメールを書く人を。仕事柄大丈夫なのか?と思ってしまう。
今まで気に留めていなかったけれど、その人のメールを“おかしな日本語。伝わらない日本語”であると定義すると、これまでの事がすべて納得できた。
それほど酷い状態ではないけれど、なんだかとっても理解しにくいメール。書くにも時間がかかる(話すより)のがメールなので、出来れば簡潔に誤解無く伝えたいはずなのに、その辺の考慮はなく、かといって長く書いてくる訳でもなく、情報不足の、どちらとも意味が取れるような、判断材料に欠ける、曖昧な、はっきりしない、短いメールを送って来る。いつも肝心なところを抜かして・・。疲れる。
私はどちらかと言うと“長い”人なので、そこは反省すべきところ。“大は小を兼ねる”ではないけど、書くべき情報を漏れなく網羅するためにそうなっているだけで・・(と自己擁護)。
ちなみに、我が母親は、時々ちんぷんかんぷんなメールのやり取りで笑わせてくれる。これは、もう仕方が無い、と諦めの域。その点父親は簡潔明瞭(感情隠しのため?)。対照的で面白い。

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