月曜日, 8月 31, 2009

Bremenからこんにちは(11)ドラマ〜〜〜



イタリアンオペラのコンペ。第二次予選には40人が残り(約半数)、日曜日の戦いで、決勝に進む12人が決まりました。やっぱり素人目とプロの目は違うんだなあ〜〜と、ファイナリストの顔ぶれを見て思いました。
ファイナリストの発表と、選ばれた人、周囲の反応にはやはりお国柄、お国の状況が切に感じられました。一番多かったのが韓国籍の人で5人。さすがに豊かな国で生活しておられるのだなあ・・と実感。そして“お国感”なし。決勝出場への余裕すら感じられる方たちでした。続いてロシア3人。“新体操ロシア!”を思い出す(なんでだ??)ような顔ぶれ。印象深かったのが出身国は忘れましたが、(南米の小さな国。アルゼンチンでもチリメキシコペルーブラジル以外の だったかなあ)、その国からの出場者。この国からの出場者はもともと一人であり、一分の一の確率で決勝へ進んだ男性が居ました。本人の喜びよう、周りの喜びようは、涙を誘いました。(彼がどんな人生を歩んで来たのか知りませんが、ここまでの道のりは易しいものではなかったのであろう・・と)。同時に“国を背負って”“故郷に錦”的な要素もたっぷりでした。(決して私は覚めた目で見ていた訳ではなく、ファイナリストのぴっかぴかの笑顔、涙。また、各出場者の歌声をほれぼれしながら見聞きしていました。楽しくなければ3日通いません!!)

とにかく、なんだかとっても“ドラマ”があった3日間でした。ファイナリストのコンサートは9月4日。これは無料ではないので、私には厳しそうですが、とにかく、巣立って行く若い才能を見た気分で、とてもすがすがしい・・反面、自分のふがいなさ、才能のなさにも直面した3日間でした。

金曜日, 8月 28, 2009

Bremenからこんにちは(10)アイドル? & 人種について考える



今日は友人とお茶する(友人宅で)予定でしたが、その友人が「イタリアンオペラの国際コンペがあるから行かないか。無料だし」というので見に行ってきました。準決勝大会で3日にわたって行われ、初日の今日は60人の若手オペラ歌手がアリアを披露しました。3月から世界各地で予選が行われそれを通過して選ばれた代表です。ですが、出身国に些かの偏りあり。非常に多いのが韓国。世界180以上の国と地域が存在する中で、出場者の10%以上が韓国人。恐るべき数字。韓国では声楽ってそんなにメジャーなのでしょうか?ちなみに、中国、日本、マレーシアのアジア勢も入れると、いったい何人の黄色人種が居たか・・。その他、ロシアや南米の方が多かったですね。勿論国際大会なので、ドイツアメリカカナダイタリア・・出身の方ももちろん。出場に一応の年齢制限があり、女性は30歳以下、男性は32歳以下というのがラインのようでした。
さて、イタリアンオペラのコンペなので、皆(恐らく)イタリア語のオペラソロを歌う訳です。言葉の耳への届き方に、同じイタリア語で歌われているとは思えないような違いがありました。アジア人:なんだかとっても薄っぺらいイタリア語。日本語は最も口を使わずに話せる言語・・というような話を聞いた事がありますが、単調に聞こえることが多かった気がします。上手いのに下手に聞こえる・・みたいな。声に“アジア”を感じました。南米:ペルーやアルゼンチンの方。私の持つイタリアンオペラの歌唱に最も近い響きがしました。“ラテン”さ で共通するところがあるのでしょうか。イタリアに距離的には近いはずのロシアの歌手より、“それっぽい”響きがするのです。ロシアの方の声はなんだかちょっと寂しげ。“鬱”っぽさが漂うような・・。(曲にも寄るのかな? 思い込みかな?)。ということで、素人目から見ると、(聴くと)南米勢が優勢!に思えました。
さて、アジア系の民族がオペラの大会でなんだか損をしているなあ・・と思うもう一点は、“顔”です。やっぱり彫りが全然違います。表情がここまで違うか・・と。日本で歌舞伎とか能とか、中国で京劇とか・・ああいう“面”やら“隈取り”“化粧”やらで元々の人相&表情を工作して演じる芸能が発達したのには、この“アジアの顔がインパクトに欠ける”という理由があったのだろうか?などど“根拠のない”考えも抱きつつ朝の11時から19時前までほぼびっちり60のアリアを聴きました。
いやあ、聴けるもんですね。驚きです。多分、ストーリーとかがなく、どの出演者も違うオペラからの曲を歌うため、メリハリもあり、気分も変わり、飽きずに聴けたのでしょう。
ですが、今日見つけたアイドルは、出演者のオペラ歌手さんではなく、ピアニストの方です。国選弁護人みたいな感じで、お付きのピアニストを本国からつれて来れない人に主催者があてがうピアニスト(だと思われる。何の紹介もなかったので詳細不明)。3人居られましたが、その中の一人のピアノはステキでした。ピアノの善し悪しで、歌の聴こえ方も違うのでなんだか不公平感も(素人には。審査はプロが行うので大丈夫でしょうが)ありましたが・・。ピアノだけ一度聴いてみたい、と思わせる演奏でした。

さて、この大会日曜日には結果が出、10人が選ばれます。時間があったら日曜も聴きに行こう〜〜っと。思いのほか楽しかったのでかなり満足です。

金曜日, 8月 21, 2009

Bremenからこんにちは(9)貴重な貴重な



ブレーメンに日本人は少ない・・というか会わない!と思っていましたが、やはり居るところには居られるようです。
こちらで働いておられる日本人の方にお会いしました。そしてしっかりお土産をいただいてしまいました。
“あんこ”。あんこ好きの私のために、わざわざ作ってくださった大福・・などなど。かなり幸せです。ありがとう!!
いやあ、やはり持つべきものは“同胞”でしょうか。
そして・・。
2004年9月から共に歩んで来たMac君。当時の中ではかなりの機能を搭載していたPowerBook G4。今でも十分に機能するし、動作にもほぼ何の問題もない。(たまーに私の、せっかち性格が災いして、パソがついて行けずにフリーズ、ダウンしてしまうことがあるけれど)でもでも、寿命が迫っているような気もする。いろいろ作業していると気がつけば、あと保存できる容量が4Gを割ってしまったりすることもある。これってカメラをもって外出したら、3日ほとでいっぱいになってしまう量。これは心もとない。音楽を消したり、DVDに保存した写真は消去したりで乗り越えて来たけど、もうちょっとデスクトップ上で残しておきたいのも事実。ということで、買い換え?も視野に入れつつ・・・。
でもこのMac。本当に良く働いてくれているのです。シンガポールで買いました。日本にもって帰りました。そして日本からドイツへ。しかもシンガポール、ロンドンを経由してのブレーメン入り。長旅にも耐えてくれました。AirMacが認識されておらず、修理に出した事もありました。DVDの読み取り部分がなんだかおかしくて修理にだしたこともあったなあ・・。今回のキャラバンでもずっと一緒でした。思い出のいっぱいつまったMacです。かなり気に入ってます。
まあ、まだ新しいのを買うと決めたわけではない=資金難のため。のですが・・今後いろいろ活動&交流範囲を広げて行く中で、10.5でないMac。他の周辺機器とバージョンがあわないMac。アップデートできないMac。ブラウザ問題もあるMac。新しい機器はやっぱり必須・・。ああ・・(しんみり 嘆かわしい)
で、今回の新しいMacを買う事を視野に入れた際にやはり助けてくれるのは、日本人・・。まあ、言葉や考えの違いがいつまでもついて回るので、日本人の手がやはり必要なんですけれど・・。
ということで、御礼。

PS 先日ブログにブレーメンの大学に通う方からコメントを頂きましたが、寝ぼけていたのか・・何を思ったかコメントを拒否してしまいました。拒否するつもりは毛頭なかったのです!!本当にすみませんでした。(まだ読んでくださっているとは思えませんが..)

土曜日, 8月 15, 2009

Bremenからこんにちは(8)(日にちを)逆行して ブレーマーハーフェンなど






12日。車なら40分くらいで到着できるブレーメンの飛び地。ブレーマーハーフェンへ船で。3時間半ほどかけて。ウェーザー川を北上します。今年は水、川にご縁があるようです。キャラバンでは川を南から上ってきました。ですので、今回のこの航路は未知の域であり、ほぼ北の海側までブレーメン界隈のウェーザーを踏破してしまった事になります。
8時半出発、12時着。3時15分発、7時帰着。の日程で、ブレーマーハーフェンでは3時間くらいの時間がありました。動物園へ行く人、食事を楽しむ人・・思い思いに時間を過ごしていいのですが、私は入場料もバカにならないので、とりあえず街歩き。数少ない男性シニア参加者で、仲良しのおじさん(おじいさん?)が付き合ってくれ、いろいろ案内してくれました。
ウェーザーは6時間ごとに干満を繰り返します。そして川には水門がたくさん設置されています。本流と支流(人工?)の水面の高さが数メートルも異なるので、船着き場(支流側)から本流へ合流するために水門で水位を調節してもらう必要があります。(戻る時然り)これだけ水位差があると楽しいです。純粋に。キャラバン移動の際も幾度となく水門で水位調節(水がたまるのを待ったり、出て行くのを待ったり)で待機しました。この時は、門内に居ましたが今回は外からの観察。なるほど、こうなっていたのか、と納得。
・・と自由時間をめいっぱい使って歩きまくりました。
ハーフェン=港の醍醐味をしっかり味わって戻ってきました。

ブレーメンにはウェーザーウ゛ェ−という堰があります。これも目にする機会があったので(この翌日)写真に撮っておきました。ホント水とご縁がありまくりです。

Bremenからこんにちは(7)うれしいこといっぱい。


キャラバンが終わって一週間が経とうとしています。なんだかぼーっとした感じです。急に寂しくなって、やる事が増えたような減ったような、でもなんだか進まなかったり・・。
この1週間に取り戻した現実。1)教会のシニアクラスへの再参加。なんでも12日の水曜日はブレーマーハーフェンへの船旅が企画されていたようで、飛び入り参加させてもらいました。私の船賃は誰かのお財布から捻出されたようです??(いつもごめんなさい)2)キャラバン中に電話がかかってきて約束。シニアの方の91歳の誕生会へ招待。ウェーザー川沿いの夏の家で祝いの会。3)そうそうキャラバン中のショーで痛めた足を診てもらうために医者に。火曜木曜の2日。外科は超忙しそうで、診察時間なんて数十秒。なのに結構な額を後日請求されるんだろうな。ま、痛みはなくなったからいいですが、ごっついサポーターをつけ続ける必要があるらしい。1ヶ月。自分でも変な体勢で足を使い過ぎの間があったのでこれで矯正するのもいいでしょうか。4)大聖堂ミュージアムの見張り番として再始動。日本の監視役的に座っていたら、もっと動き回って!と駄目出し。でも名札をつけて座っているだけで、結構声をかけられるので驚き。久しぶりで展示の事すっかり頭から飛んでいました。取り戻さねば。
と、こんな感じの一週間。
そしてキャラバンのみんなが、あの団体生活を懐かしがっていることも、メールや電話やらで知りました。さて、15日土曜日は、恒例のキャラバン集会です。キャラバン直後の土曜日なので開催されないかも?と思いましたが、とりあえず出かけると・・やはり誰もいない。幸い代表が、ひとりで茶を飲むべく事務所を開けていたので中に入れましたが・・。・・と思っていると遅れて、数人。いつも土曜日は話し合い&食事をするので、ご飯を食べにくるだけの人もいるのです。ということで数人集まったので、かなり遅い時間からではありましたが食事だけみんなで作って食べる事に。みんな、この場所を求めている事、安らぎを得に来ている事、そんな風に感じて嬉しくなりました。今後も毎週土曜日は集会ですし、寄り合い的会議は水曜日に開催されているらしい・・です。聞きたかったらおいで、とのことなので、ちらりと顔を出してみようかと思います。
そしてその後は、ブレーメンの夏のイベント「LA STRADA」。サーカスなどのイベント、出し物が市の中心部マルクトプラッツ中心に、いくつものステージで披露されます。別に何もなければスルーするイベントですが、カーニバルでお世話になっているグループのステージがあるので写真撮影&ご挨拶に。今回は通常10人ほどはいるメンバーの中で4人だけの出演。なので、周りにメンバーの人が一般観客として参加。久しぶりの顔にまたまたいっぱい会いましてご挨拶。そこで仕入れた情報によると、もうそろそろ来年1月のカーニバルに付いて本格的に話し合いが始まっている、のだそうです。この会議は火曜日。火曜日はあいにく私にとり最優先のクワイア練習。カーニバルへの参加はコスチューム作りの作業所などなどだけになりそうです。
さて、はっきりいってやる事いっぱいいっぱい増えてきました。私は一人。体も一つ。24時間しかありません。できることとできないことをしっかり見極めて判断していく必要があるなあ、と感じます。何でもかんでも手当たり次第やれる時期は過ぎた、と。
ただ、知り合いが増え、誘いが増え、可能性が広がっても、決して忘れてはいけない事は、その大元にある事。日本でゴスペルを始めた事、教会を知った事、こちらですばらしいクワイアと教会にであった事、この基盤があるからこそ、私は安心して、その他の事にも取り組めるということを肝に銘じなければいけません。
いつものことですが、感謝します。 そして明日は久しぶりの礼拝です。感謝します。

日曜日, 8月 09, 2009

Bremenからこんにちは(6)すべて終了。



3週間のキャラバン生活を終え、ブレーメンを拠点にした活動を終え、これですべてのプログラムが終了しました。参加前も、参加後も、この団体の活動方針を説明しろ!と言われたら、日本語でも上手く説明できませんが、(なんだか幅広すぎて・・)この旅が私にもたらしたものは、自分でも驚くくらい大きなものでした。
自分が一番驚いているのではないでしょうか。私は小さな小さな一人の人間です。なのに、自分が人にもたらしたもの、この団体にもたらしたものはとても大きかったようなのです。特別な事をした訳ではありません。ただ、私に出来る事を出来る範囲でやっただけ。そりゃあ少しは役に立ちたいという気持ちは十分にありました。なんせ、3週間ほぼただで食住満たしてもらっていたので。でも、「出来る事は精一杯こなそう」という気持ちが自然と湧いて来て、損得勘定無しに、気持ちよく働くことができたのです。働くだけではなく、団体の個々の活動にしろ、気持ちよく参加しました。
ややこしい心理作戦や、計算高い行動などは一切なく、心の赴くままに行動できた(この言葉が“私”という人間から出ること自体が不思議です。)結果、相当の軌跡を団体の活動に刻んだようです。
今回のキャラバンは私無しには成り立たず、深い印象を残し、今回のキャラバンの星!とまでの団体代表のお言葉を頂き、自分のパワーに自分が一番驚いています。
こんなに人に愛される人間だったでしょうか?こんなに愛される資格が私にはあるのでしょうか?
ドイツに来て私は本当に、良い方向へ転換したのかもしれません。
料理当番に「おいしい夕飯をありがとう」と言ったら、「食べてくれてありがとう。そしてその笑顔にありがとう」と返答。「私が 笑顔???」。日本にいたとき、親にさんざん言われていました。「恐い顔ばかりせず、笑っていろ」と。笑顔など忘れていたのに、ここではどうやら自然と笑顔がでているようなのです。そして人が集ってくれます。日本人であることの珍しさ抜きに、私がどうやら“あたたかいもの”を提供しているようなのです。
自分が一番信じられません。氷のような心しかなかったはずなのに、今の私の心はとっても豊かで温かいようなのです。不思議不思議不思議。
「人は変えられないけど、自分は変われる」。これも親にさんざん言われたことです。変わる必要ないと思ってました。冷たくって、人生斜めに見て、バリアを張って、強く(強がって?)生きて行ける自分が誇らしくもありました。でも、変わったつもりはないのに、自然に私は変わったようです。自分の居場所であるところを見つければ、人って変われるんですね。そう思います。無理に変わらなくても、意識しなくても。
ドイツで起こった事は、教会の事もクワイアの事も、キャラバンの(この団体のことも)奇跡のようです。ブレーメンでのプログラム中に、キャラバン参加者が、この数週間に及ぶ旅行の印象や活動内容などを説明しました。私もなぜか、その使命を課せられ、間違いだらけのドイツ語で用意もしていなかったのに、人前で、しかもマイクで話すはめになったのですが、「私が、何故ここにいるのか自分でもよく分かりません。ただここに居る事が奇跡のよう」と話しました。続いて、「昨日船の上で“私は生きている”と思いました」と話すと笑いが・・。大げさだったからでしょう。でも付け加えて、「10年以上ドイツに来る事を夢見ていました。でも機会がなく、昨年やっとその夢を叶えました。日本に居る時、病気を抱えており、一度死にたいと思った事がありました。だから、生きていることがすばらしい、と思ったのです」(注;ドイツ語で喋っているので、これは私が話したかった内容であり、もしかしたら、全然別の意味で解釈された可能性もあり)と話しました。正直な気持ちでした。当然のように苦しかった過去10年を思い出すとともに、生きている事、そこにいる事を思って泣いてしまったのですが、一応皆に私の気持ちは伝わったようでした。
ドイツに来てから奇跡ばかりです。人に助けられ、助けてもらっているだけのように見えて、実はしっかり人を助けている・・という生活。不思議ばかり。

ドイツに来て本当に良かった。仕事を辞め、将来の展望もなく、あてもなくドイツに来たけれど、それは、何故自分が10年以上もドイツにこだわり、ドイツを適えるまでは、他の事を続けてやる気にはなれない、それはなぜか、ドイツに何があるのか、何が私をドイツにこだわらせ続けるのか、その答えが知りたかった。その気持ちに背かずに、思い切ってドイツ行きを決断して本当に良かった、そう思います。残念ながら、“答え”は分からないけれど、私の今の気持ちが、私の決断が間違っていなかった事を証明している気がします。

30年の人生のうち、10年苦しみました。体に少しの“ガタ”は残っているし、病気は完治したとは言えないけれど、今、今までで最高に幸せな瞬間だと思います。そして、私はもっと生きたい。生きて行く中で、今後何度も、闇の時期を体験するかもしれません。それをどう乗り切るか、乗り越えられるのか、は分かりませんが、その闇は、かなり“人間的に成長した自分”で立ち向かえそうです。

キャラバン締めのブログが大げさになりましたが、(また今後もキャラバンの活動を続けていくので話題には上るでしょうし、今日から一人になって寂しくなって、キャラバンの思い出ばかりブログに綴るかもしれませんが)とにかく、終了です。

私をキャラバンに導いてくれたオットー、金の心配をせずに参加してね、といってくれた代表クラウスとみんなのお母さんアネ、劇グループのみんな・・・ラインホルド、アーノルド、アンディ、イエンツ、ハンチユーゲン、ミヒャエル、クリステル、ウウ゛ェ、パトリシア、劇指導の俳優マテン、太鼓グループのみんな・・ディートリフ、ウレ、ネレ、クララとリーダーのイラン人モッサン、私を見て、「おしんを見つけた」と喜んだイラン人ジャワット、ベリリンからずっと旅したベルリン市民ジモーネ、ウルリケ、ロタ、アンドレ、荷物をトラックで延々運んでくれたペーター、船が恋人〜〜のように船といつも会話してしていたキャラバン実質リーダー フィッツやラレ、おいしい料理を作ってくれた人、私がレイアウトするための旅新聞のための記事を書いてくれたマルコ、写真を撮るために一緒に旅したグレゴリー、フォルムチームのアネ、ブレン、テディ、各都市のプログラム遂行に当たり準備をしてくれた人、私がこの旅で関わった人々パウラ、リリー、クイニー、ビルギット、シャルロット、ラス、グレゴ、ユーゲン、マノエラ、ザビーネ、ホルガ、アンデレア、ヴォルフガング、ヘルガ、レインハルド・・その他いっぱい・・・(書き漏れがあったらごめんなさい)のすべての人々とすべての体験に心から感謝します。

金曜日, 8月 07, 2009

Bremenからこんにちは(5-番外その2)Bremenからではないですが・・・。






Bremenからこんにちは(5-番外)Bremenからではないですが・・・。






写真・・。

Bremenからこんにちは(5-終)Bremenからではないですが・・・。



はっきりいって7月18日から8月6日まで、活動最終日までだと8月9日まで3週間にわたる旅でしたが、拠点は3カ所で移動は多くなく、スケジュールも余裕があり、こういう仲間との生活だったので、ストレスを貯める事なく生活できました。テスト後、参加前から原因不明の下痢に悩まされ、一週間ほど続いたり、足を酷く虫にさされたり、疲れで口内炎ができて未だに治らなかったり、足をくじいて痛かったり、喉が痛かったり、睡眠不足でふらふらの日があったり、いろいろでしたが、無償でいろいろさせてもらっているから、ということもありますが、私にできることは何でもしよう!という気にさせてくれます。そして思い出しました。
親が私が生き方に迷って、高校を辞めてドイツに行くと言ったり、なのに大学で中国語を始め、留学したり、卒業後プーやフリーター的生活だったり、シンガポールで働いたり、そして日本で精神的にかなり限界に近くなりながら(病気で。仕事の所為ではない)働いていたり、で結局何がしたいのか見つからず、(というかいつまでもドイツが引っかかり、前に進めないし、自分自身の進んでいる方向に自分で納得できていない)、イライラしているのを見て、「なんでもいろいろ器用にこなすのに、もったいないなあ。どこか能力が発揮できるところがあればいいのに」と親ばかのように言っていましたが、親がいろいろ幼い頃から経験させてくれたおかげでもあるのでしょうが・・。そうやっていろいろ出来る事が、ここで遺憾なく発揮されている気がするのです。(自分で言うのもなんですが、)かなり気が利く事、バタバタ忙しく動ける事、分からないながらもいろいろ想像して動けること、を始め、私が少し出来ること、例えば歌を歌う事とか楽譜を見る事、とか・・新聞とかのレイアウトを取る事、とかがかなり役立っているのです。言葉の壁を抜きに、頼られているのを感じます。それは時には重圧でもあるけれど、大変光栄な事でもあります。
ブレーメンでの4日間をまだ残していますが、とりあえずブレーメンに戻ってきました。また一人の生活が始まるかと思うと大変寂しくもあります。大半の参加者がブレーメンの人間ではあるし、Blaue Karawane の拠点はずっとブレーメンにあるし、劇のグループは解散せずに続けよう!という話もありますが、大きな物がかけてしまうようで寂しいです。どんな最後になるんだろう。涙・涙かな??とにかく、感謝感謝でいっぱいです。

Bremenからこんにちは(5-4)Bremenからではないですが・・・。

では、どんな仲間がいるのか紹介しましょう。団体の設立者は現在も精神科医としてブレーメンで働くお医者さんです。25年の年月が流れているので、もちろんメンバーは入れ替わっているようですが、目の見えない人もいますし、足の悪い人もいます。頭が少し弱い人もいます。性格的にかなり個性的な人もいます。対人関係を築くのが苦手そうな人もいます。私もどちらかと言うと、人とべったり関わるのが苦手なので、ドイツ人だからか、この団体の人間だからか、ある程度のわがままが許されてしまうのです。というか、それで当然、といった具合です。一緒に行動しなくても、団体行動中に少し外れた行動をとっても、それは本人の自由で、一つの権利として認められている感じです。例えば会議中に余裕で席を立ったり(日常茶飯事)、そもそも参加しなかったり、外部団体との共同でのディスカッション中でも出入り自由、トイレ喫煙入退席自由、飲食自由・・でそのうち先方に切れられるんじゃないか、と思うくらいの態度。話を聞く姿勢も、様々。目上の話は姿勢を正して聞く、などという考えはないのでしょう。思い思いの格好で、楽に聞いている、もしくは聞き流している、もしくは聞いていない。なのに、しっかり意見だけは言う。感心すべき態度です。だから私がやっていけるのかもしれません。
3週間ほど、ドイツ人と飲食を共にした訳ですが、驚く事もあり、私が細かいだけか、と思う事もあり。
まず、夜に風呂に入らず眠る人が多い。朝シャワーが主。湖で泳いだりした日でもそのまま眠る子も・・。洗濯はいつしているの??と思うくらいの洗濯物数。私はすべての下着は毎日手洗いし、部屋にほしているけれど、誰も洗濯していない・・。全行程参加する人は一人では運べないほどの荷物を持って来ており、大量にクリーニングしているひともいました。面白いのは、チューブ状の旅行携帯用洗剤があること。小袋の洗剤と違って使いやすいなあ、というのが感想。
部屋での着替えに恥じらいなどなし。全裸に近くてもどうってことない。もちろん共同のシャワールームなどは、日本の温泉や銭湯と同じですが、タオルで前を隠すとか、そういうこともなし。
湖に気軽にタオル一つで泳ぎに行き、その場で着替え、泳いで、戻る・・のが普通。砂まみれになる事・・とかどうってことないみたい。
土足だけれど、部屋を裸足で歩き、そのままベットに入るし。
きれいと汚い、外と中の境界が私とはかなり異なります。ドイツ人は家庭では靴を脱ぐ人が多いのですが、それは寛ぐためであり、客人が家に来たときは脱ぐ必要がないことが大半。寛ぎたければ脱いでください、というレベル。だから、家の中は「中」なのか「外」なのか分からないのです。つまり、屋外の地面に食べ物を落としたら、食べるのを少しためらうけれど、絨毯やフロアの上だったら、まあいっか、で食べる・・のが私のやり方ですが、それは家の中が「中」だから。ドイツではだから中か外か分かりません。でも、玄関の空間がない住居ではやはり家の中でも中だという気がしません。
話がそれましたが、まあ、この参加者の常識がドイツの常識であるかどうか、は確かめるすべもなく、聞いてよいのかどうかも分からず、だし、常識通りに振る舞う事が正しいとは限らないので、この団体でのやり方、であるのだ、と単に受け止めておく事にします。

Bremenからこんにちは(5-3)Bremenからではないですが・・・。

ベルリンでは、まず、ナチスドイツ時代の精神病者の生き残りの女性に関するフィルムと本人による講演を聞いたのが参加1日目。翌々日には野外拠点を撤収し、次の都市ブランデンブルグに移動したのでベルリンには数日しかいませんでしたし、主活動には参加していません。ナチスがユダヤ人を迫害した事は有名ですが、ユダヤ人だけではなく、精神病者も対象であった事はあまり知られていません。私も2004年にダッハウヘ行ったときに初めて知りましたので。その生き残りの方の講演でした。翌日、ベルリンの運河にラクダを走らせ、太鼓をならし、キャラバンをアピール。
ブランデンブルグ。旧東ドイツの都市。私にとって初めての東ドイツでした。これほど東西で差があるとは思いませんでした。簡素と言うか寂れていると言うか、寂しいというか。まあ、統一前は街に色がなかったのですから仕方ないのかもしれませんが、20年経った今も、西との差は明らかです。ここでは、精神病患者の病院・生活園的なところを訪れたり、精神病者が迫害された歴史を勉強したり・・しました。ラクダももちろん活躍し、今度は街を練り歩きました。元市長さんも歓迎してくれました。
一週間の滞在後ヴォルフスブルグに移動。運河を船で移動しました。ここはかの有名なフォルクスワーゲンの都市。ブレーメンを取り囲む州、ニーダーザクソンの一都市ですが、さすがに裕福!!ブランデンブルグとの違いに驚くとともに、世界的有名企業のお膝元であることのすごさを感じました。ここでは、失業や労働環境に付いて、企業側と戦う藤堂組合と行動を共にし、パレードやディスカッション、そしてフォルクスワーゲンの企業工場?見学にも訪れました。
ブランデンブルグとヴォルフスブルグで2回ショーの出し物をしましたが、その際に、「Die Blaue Karawane は私なしでは成り立たない!」という団体代表の有難いお言葉をも頂き、(とくに思想的な行動をしている訳でもないし、労働組合云々はあまり考えた事のないテーマだし、あんまり関わりたくないような気もするけど)ブレーメンがますます離れがたい都市になっていくのを感じました。

Bremenからこんにちは(5-2)Bremenからではないですが・・・。



滞在都市はベルリン、ブランデンブルグ、ヴォルフスブルグ、そしてDie Blaue Karawaneの拠点であるブレーメン。それぞれ一週間から10日滞在。宿泊先以外の野外に拠点となるテント等を設置し、そこで料理をしたり、集ったりするのです。共同の荷物はドラックで運びます。
私の役目は、このキャラバンの出し物のひとつであるショーへの出演。台本がなかなか定まらなかったけれど、4月から何度も顔を併せ話し合いを続けて来たショーです。それから、キャラバンの新聞をレイアウトする事。これは事前の集まりで、代表の人と話し合いをしていたのですが、キャラバン出発の前日に、その代表が、この組織を去ると言う不測の事態が発生し、このほぼ日刊にしたい新聞発行がどうなるか危ぶまれましたし、はっきりいって上手く機能しているとは言いがたいのですが、とりあえず人目につく形で印刷ができ、ブレーメンへの移動道中で参加者に配布する事ができました。

それからそれからキャラバンの音楽隊(太鼓隊)への参加。太鼓などたたいた事がなかったけれど、他にやる人がいない&併せて歌う(テーマソング)人がいないので・・?強制的に太鼓隊へも参加。なんやかんやと重要なポジションに居ります。
性格からか、かなり働くので、(力仕事も、理解力は100%ではないのに・・頭仕事も)、喜んで仕事をくれます。そして、それが私にできるなら、喜んで引き受けたい・・という気になるのです。理由は、タダで宿泊し、ほぼタダで飲食。追加で個人的に飲食したり買い物したりしなければ、財布を触る事ってすごく少ない。なのに、毎日本当にたくさんのことを得ているのです。感謝、そしてだからこそ私の出来る事はしたいなあ。と思うのです。
こんな感覚は日本では味わった事がないし、大勢で旅する事、食事する事、何かを一緒にする事が、こんなに楽しいとは思いませんでした。自分の思い通りにいかない事ばかりで、窮屈・・イライラが募る・・ばかりだというのが私の考えだったので。
すごく生きているなあ・・と実感し、ドイツにいる事、キャラバンにいる事、誰かを必要とし、誰かに必要とされている事を実感するのです。本当にありがたいことです。
旅を続け、分からないなりに活動に参加し、講演を聴いたり、ディスカッションに参加したり、毎日の会議に出たりしていると、だんだん活動趣旨が分かってきました。この団体の精神の是非は、判断しかねますが、(理解で着ていくにつれて、また様々疑問もわいてくるので)とにかく、これだけいろんなものを見聞きするチャンスは自分ではなかなか得られないでしょう。

Bremenからこんにちは(5)Bremenからではないですが・・・。

ブログの更新がかなり滞っていました。以前から何度となく書いていますが、7月18日から8月9日までとある“キャラバン”に参加していました。「Die Blaue Karawane」という団体で、「Blau」(青)をイメージカラーとする組織。空や海のように境界のない社会を・・ということで、精神的な障害を抱える人と普通の人、身体的な障害のある人とそうでない人、仕事のある人ない人、老いも若きも、男も女も関係なく、一緒に過ごせる社会の確立を目指す社会的な組織です。(多分)。この団体は1985年に組織され、今回で4回目のキャラバン。ベルリンからブレーメンまで、川や運河を伝って移動します。
我らのシンボルとなっているのが、青いラクダ。ウ゛ムナと言います。キャラバンにつきもののラクダ。私たちのラクダは青く、基本的にはボートに乗せて、水上を行くラクダです。そのラクダを都市の港に泊めて活動を行います。時には、地上を引っ張って移動させます。大きな大きなラクダで、これを分解し、地上に乗せ、組み立て・・の作業も一苦労です。また、ラクダ用のボート、ラクダの後ろにくっついて行く舞台ボートもあります。普通の船ではないので、(船舶免許を大勢の人が持っているとはいえ)移動させるのも困難が着きまといます。
テストが終わってから、長期部屋を開ける準備をして、何が起こるのか、どんな集団生活が待っているのか分からないままに参加。一人旅はよくしたけれど、集団で、しかも外国人と長期にわたって寝食を共にし、社会的活動も行う・・。不安ばかりでした。さらに、この団体の活動趣旨もはっきりいって正確には理解できていなかったので。
でも、その不安ははっきり言って杞憂でした。参加者はみな親切。そして、何よりもこの団体には、“少し変わった人”が多いのです。それが更に心地よい。何事も強制される事はないし、活動のスカジュールも緩い。結構のんびり過ごせます。尤も、毎朝朝食後に会議がありドイツ語が飛び交うし、会話はいつもドイツ語だし、日本語を話したり聞いたりして“耳口を休める”ことも出来ないけれど、キャラバンの一員である事がとても気持ちがいいのは事実です。
さて、具体的に何をしたのかといいますと。もろもろについては回を分けて書いて行きます。