金曜日, 5月 16, 2008

寄付など

寄付とかボランティアとかは基本的に嫌いです。100%自分のことを省みずにすることができないから。自分の経験になるとか、何かのプラスになると
考える事自体が「ボランティア」の趣旨に反する気がするから。

発展途上国に学校を作ろう と 番組での活動をしている けど、
あれも自分自身 いいことなのかわからない。
実際ああいう国に行って、観光客と会話できる地元人と触れあうと
いい人もいるし、騙してくる人もいるし。でも普通に幸せそう。
悩みはありそうだが、それは私たちが常日頃抱くちっぽけな悩み、
例えば、太ったとか、友達と喧嘩したとか、親の具合が悪いとか
そんな感じ(国や経済レベルが違えば、悩みも自ずと変わってくるけど)
道ばたに簡易コンロみたいなので屋台をだしているところでは
くみ置きの水で調理するし、食べ終わった後の皿は
つけおきして、残飯が取れたら汚い布巾で拭き取って
次の人に使う。飲み水は別だが、そのコップは、飲み残しの
水で洗って使い回し。私はこれでも別に違和感は感じない。
でも、こんなの耐えられない・・って思う人が大半、だと思う。
でも地元に人にすると、それが普通。そして
それが普通の国に、普通でないものが外部の力で創り上げられる。
外の世界を否応なしに魅せられる。自分が実は幸せではないのかもしれない、
という考えがよぎる。
これって、そこの人々には幸せなこと?????それが分からない。
もし、外の世界を知って、出て行きたいと思っても、やはり
弊害が大きく、実現できない。実現できるのはほんの一握り。
そして格差が広がる・・。これって幸せなこと??

地域格差は日本にもある。
都会と田舎。田舎に住んで、便利なところのことを知るから
余計に虚しくなる。田舎にいるとやはり、何に対しても機会が少ない。
「少ない」のは都会に対して、で、もし自分の田舎が自分の世界全てだったら、そういう悔しさとかは感じないはず。
それと同じだ。私たちは、そこらへん、比較的恵まれているので
何とかなってしまうんだけど。
でもこの豊かさも、私たちの手で築いたものじゃあないんだよねえ。

規模の大小は違えど、「助ける」ことのタイミングや内容って
かなり慎重にならないといけないって思う、決して自己満足に
なってはいけない。

さて、なんだか話がそれましたが、寄付を初めてしました。
といっても義捐金とかじゃあないんですが。
高校の同窓会費と大学への寄付をしました。
なんでか分かりません。経済的に余裕があるわけではありません。
毎日カツカツです。
何故そんな気分になったのでしょう???
自分の過去をやっと肯定できるようになったのでしょうか?
自分の存在を自分で認められるようになってきたのでしょうか?
「過去を見つめる」「過去を認める」「過去を肯定する」
自分の歩んできた道を見つめること・・・・・。そういえば、
この10年間私を苦しめ続けている症状が少し緩和しているのは事実。
失われた10年じゃあないけど、この無駄とも言える10年も
自分自身の10年として、認めることができるようになってきたのかも
しれません。そして、けっこう気分良く過ごしています。

何を書いているのか分からなくなってきましたが、まあ
そういう事です。
発展途上国の人々も、自分の暮らしを振り返ったとき、
これはこれで幸せだと思っているのかもしれません。
こればっかりは本人・当事者でないとわからないものです。

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