
・事務方取り仕切りの代表が、ドイツを去った。→もろもろ諸連絡が行き届かない。何をするにも後手後手に回る。
・教会の牧師先生が退職。→ゴスペルクワイアは創立10数年。牧師先生は32年この教会で牧師として勤めました。牧師先生が立ち上げたクワイアとも言え、そこに、アフリカとの微妙な事情もからみ・・。(このクワイアはブラックゴスペル的なのを歌います)その生みの親が居なくなった今、教会や牧師さんに恩義を感じてクワイアにやってきていたメンバーの心境にも変化。クワイアは後ろ盾を失った感じ。
・夏以降、クワイアリーダーやピアニストの病欠相次ぎ。まともに練習できず。
ということで、26日の曲目(といっても何を歌うのか誰もいつも知らない。ステージ上でリーダーが勝手に進めるのについて行くだけ)中の2曲は全くの新曲。19日に行われたワークショップで始めて歌ったという全くの新曲、且つソロパートがほぼ無く、ソロの上手さでカバーできる曲ではない、且つ、3声ばっちり歌えないと、聴かせられん!という曲。別の2曲も、その夏以降のバタバタの中、2〜3回練習したっきり。歌詞もあいまい。
そんな中迎える事になった26日のコンサート。救いは入場料無料・・ということだけ。
そしてなんとか・・・観客の皆さんに助けられ、時間を1時間オーバ−して終了。終わった後に待っていたものは
“ピアニストとの別れ”。今までクワイアで弾いていてくれたピアニストさんは、分かる人には分かりますが、去年私とサプライズCDを作ってくれた方です。本当に若い才能に溢れた方で、彼の伴奏はそれだけで下手なクワイアの歌を、あたかも上手に歌ったかのように聴かせてしまう・・というもの。彼の伴奏で歌うのと、他の人の伴奏で歌うのは、心持ちが全然違います。それはメンバーの誰しもが分かっていた事。そのピアニストが、自身の将来のために、一旦我がクワイアを退きます。クワイアは他のピアニストを探さねばならないのですが、難航中。
これでまた、このクワイアは強力な求心力を失いました。私としては、クワイアリーダーとも歌いたいし、ピアニストとも歌いたい。しかし何よりも、私はクワイアのメンバーであり、且つ、クワイアが所属する教会にお世話になっている人間なので、この教会のクワイアには留まりたい訳です。でもきっと恐らく、上記3人の人間がクワイアや教会から去る事で、メンバーの中で疎遠になる人ももちろんいるだろうなあああああああああああ、と悲しい。ゴスペルの世界大会で2度も金メダルをとった過去をもつ(メンバーに当時の面影はほぼなし)ので、名前だけは有名なクワイア。歌のクオリティが、急降下することは間違いなく、でもそんな事情は、聴く方にはまったく関係なく、このクワイアの名前を引っさげているからには、それなりに歌えないと駄目な訳で・・・。でもそれほどのモチベーションを持って歌っている人間がどれだけいるか。プロじゃないし.余暇でやってる訳だし。
ま、私はとりあえず様子見ですね。(傍観者????)
とまあ長くなりましたが。昨日のコンサートで感じた事。
昨年ここに立ったときは、“広い。客が一杯”って思ったのです。でも、昨日の壇上から見えた教会の礼拝ホールはなんだかとっても小さく感じました。どこにもかしこにも知っている顔がいるからでしょうか。
もう一つ。コンサート後、正式にピアニストさんにお礼。当たり前だけど、誰も引き止める事無く、彼の門出を祝った感じです。
そう、誰しも己の道があります。誰も止める権利など無いし、邪魔することは許されない。メンバーもリーダーも、自分の気持ちをぐっと押し殺して、感謝の弁を述べました。何事も栄枯盛衰。同じ時・同じ状態っていつまでも続かない。当たり前だと思っていた事も、実は当たり前ではなくて、いろいろな偶然の上に成り立っている。彼がクワイアを去るなんて誰も考えもしなかったのに、現実に起こってしまった・・。
そう、もし、もし、私がクワイアを去る=ブレーメンを去る=ドイツを去る ことになっても、それはきっと“あの子の選択だから”と皆に受け止められてしまうのでしょう。もし、“本当はここに居たい!”と訴えたところで、“あの子の道だからねえ”と納得されるのでしょう。そうならない事を祈ります。
ああ、まとまらなくなって来ましたが、“時代は巡る”。私も、誰しも、その流れの渦中にいるのです。大げさですが、今回の夏〜クリスマスコンサートを通して“一つの激動の時代”を生きた気分になりました。
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